奥番頭(おくばんとう、時代劇では側用人)だった晋作が野山獄という牢屋につながれたとは、ちょっと考えられない。余程悪いことをしたんだろ。それがしたのである。藩主の命令もないのに上方に脱走した罪だ。
文久三年(1863年)、長州藩は下関で外国船を砲撃し攘夷を決行する。外国勢力の反撃にもろくも敗北すると藩内は混乱する。そこに、藩主の求めに応じて登場するのが晋作である。晋作は、藩の正規軍「先鋒隊(せんぽうたい)」を補完する町民や農民が半分を占める「奇兵隊」の結成を進言、奇兵隊総督(そうとく)となる。
ところが、追い打ちをかけるように八月十八日の政変で長州藩が京都を追われると、京都を幕府から奪還しようという意見が熱気を帯びる。「進発(しんぱつ)」である。晋作などは奇兵隊を率いその先鋒を走った。しかし、政変に敗れた長州藩にまだその力はないと考えた藩の重役たちは、藩内にあって力を蓄える「割拠(かっきょ)」の立場をとる。そこで晋作の奇兵隊総督の職を解き、藩主の側近の奥番頭にまで起用し進発を思いとどまらせようとする。藩の重臣の家の出である晋作は、藩命に従うが、当時弱冠二十六歳の青年には荷が重すぎた。しまいには藩に無断で上方に上り政変で幕府と組んだ薩摩藩主島津久光(しまづひさみつ)の暗殺計画まで練る始末である。
そこで、藩は晋作を野山獄につないでしまう。罪状は、藩主の命令もないのに上方に上った罪だ。進発派へのみせである。
晋作は、投獄初日に「先生を慕うてようやく野山獄」と詠んでいる。先生はもちろん吉田松陰で、暗殺計画など練るあたり師の吉田松陰を彷彿とさせる。獄につながれ、松陰同様死を賜ることも覚悟する。そこに死を恐れない自分を見るが、攘夷の「志」を実行に移すまでは「まだ死ねない。」と思った。
長州藩は、翌文久四年、来嶋又兵衛(きじままたべえ)ら進発派の力が抑えきれず、「池田屋事件」を経て「禁門の変(きんもんのへん)」に突入する。晋作は野山獄からは出たものの自宅の座敷牢におり、変には加われなかった。参戦していれば、久坂玄瑞らとともに京都で命尽きていたかもしてない。