古代のデルタのあたりは、まだ湾の面影を残し半農半漁の生活をする人々がぽつぽつと生活していたようだ。人々の生活の主な舞台はデルタの外であった。デルタの外は「椿(つばき)」と呼ばれ、日本海側の連絡道も「椿」を通っていた。現在では阿武川を挟んで西側を椿西(ちんぜい)、東側を椿東(ちんとう)という。それぞれ小学校がある。
ところで、「椿」の地名は、一説には「津牧(つまき)」からきているそうだ。阿武川の流れに沿って船着き場があり、その周辺に牛などを飼うなりわいがあったということか。実際、奈良時代聖武天皇(しょうむてんのう)の国家プロジェクト「大仏建立(だいぶつこんりゅう)」に際して、萩からも放牧されたパワーのある白牛が献上されたという「白牛伝説」がある。
聖武天皇は白牛を連れてきたものに「国守(くにもり)」の姓を与え、宮廷に仕える「葵の前(あおいのまえ)」という姫を与えた。現在でも椿西には「国守家」の子孫が住み、「葵明神(あおいみょうじん)」が祭られている。国守家は、当時萩の豪族で牧場を経営していたことになる。
江戸時代にも、正月を祝う万歳(まんざい)は、国守家の前で舞って国守長者を祝い、それから萩城に参上していたそうだ。