奇兵隊士白石正一郎は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、「山陽道きっての回船業の大問屋である。」とされている。しかし、実際はどうだったのだろう。
文久三年(1863年)攘夷決行を行った長州藩に列強が攻撃。藩が手痛い打撃を受けると、晋作に馬関(下関)の防衛を任すことになる。そこで、晋作は奇兵隊を創ろうと、六月六日深夜下関の白石正一郎宅を訪れ協力を依頼する。晋作が白石に目を付けたのは、豪商だからではなく、小商人だが激動の幕末に潰されまいとしっかりとした商人としての情報網をもっていたからである。しかも国学を学んでおり攘夷を行った藩の動きにシンパシーを感じていた。
白石は快く協力し自身も弟廉作(れんさく)とともに入隊し会計を任される。
実は、快諾の裏には政治的に弱ければ儲けにあずかれないという過去の苦い経験があった。安政四年(1857年)白石は、密かに薩摩藩と萩藩の交易を計画し、西郷隆盛と接触、薩摩藩への斡旋を依頼し成功する。ところが、萩藩に交易を願い出たところ、藩は、地方役人でもある大庄屋中野半左衛門(なかのはんざいえもん)に取引の許可を出した。政治的に力をもたない白石は、アイデアだけ提供して儲けを盗まれた格好だ。
奇兵隊に協力することで、白石は、石高十七石の萩藩家臣の地位を手に入れた。しかし、その後の商売は決してうまくいかない。薩摩藩がらみの米の取引には失敗、萩藩から千五百両の借金をする始末だったそうである。
奇兵隊の本陣であった白石邸跡(中国電力敷地)には、「高杉晋作 奇兵隊結成の地」の碑が建っている。白石正一郎は、司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』では花を添えるキャラクターに祭り上げられたのだ。