山県有朋をご存じだろう。内閣総理大臣を務め、日本陸軍の創設にかかわった明治の元勲である。山県と同じ年の「竹馬の友」に時山直八がいる。直八は、天保九年(1838年)の元旦に萩市の西部奥玉江で生まれる。幼いころは、「餓鬼大将」で名が通っており、「近所の子どもと喧嘩すると、親指に食いついて離さない。」という逸話が残っている。宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)師範岡部半蔵(おかべはんぞう)に槍術を学ぶ。同門に山県有朋がいた。
安政五年(1858年)松下村塾に入門。松陰は直八のことを「なかなか優れた男子」といい、同じく松下村塾で学んだ山県とは、「直八・小助の気」といい、猪突猛進の直八と何事にも慎重な山県は塾では「名コンビ」と松陰は記している。
禁門の変に長州藩が敗れると、変に参戦した直八は奇兵隊に入る。すでに奇兵隊創設とともにこれに参加していた山県とは、ともに隊のリーダーとして活躍する。長州藩が幕府を敵に回して戦った第二次幕長戦争小倉口の戦いでは、直八は奇兵隊参謀として活躍している。
慶応四年(1868年)、新政府軍が鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いで勝利をおさめると、「賊」のレッテルを張られた会津藩(あいづはん)を巡る動きが怪しくなる。朝廷は、薩・長などに幕府方の長岡藩が治める新潟方面に出兵を命じる。長州からは直八が参謀を務める奇兵隊が参戦する。長岡藩の支配する小千谷(おぢや)で、藩の家老の河合継之助(かわいつぐのすけ)が新政府軍に武装中立を願い出るが、新政府軍はこれを拒否。長岡藩は会津方につき、戊辰戦争(ぼしんせんそう)最大の激戦といわれる「北越戦争(ほくえつせんそう)」がはじまった。
山県は「北陸道鎮撫総督参謀(ほくりくどうちんぶそうとくさんぼう)」という肩書で新政軍を取り仕切った。直八は奇兵隊などを率いて山県のそばにいた。五月十三日「朝日山の戦い」が行われる。直八は、山県の到着が遅れたので、時期を逃すまいとコンビの山県を待たずに朝日山に突撃する。朝日山の麓から4kmよじ登ったところで、午前八時ごろ直八率いる新政府軍は敵に遭遇した。直八は刀を鞘から抜いて敵陣に乗り込む。敵兵が銃口を突き付けていたところに顔を出したものだから直八は即死する。部下は首だけ斬り落とし味方の陣に運ぶ。胴体は放置される。明治元年(1868年)五月直八三十一歳であった。「首」と対面した山県は「自分の片腕をなくした。」と嘆き討ち死にしようとする。
明治十七年(1884年)、朝日山に「直八君の碑」ができる。文章は山県有朋のものである。