萩出身の人間国宝的な絵師は、異人の射撃の的の絵も描いた?
この絵、サーカスの団員を描いた古びた看板のように見える。しかし、実は明治時代皇室に絵を納める帝室技芸員第一号の森寛斎という人が、幕末に描いた異人(外国人)の絵である。古くなって白いほころびになっているのではなくて、攘夷思想に燃える長州の志士たちが、射撃訓練の的として用いたため、弾があたったところが白い点に見えるのである。今でいえば人間国宝級の絵師がこんなことをしなくても思われるかもしれないが、それには訳がある。
寛斎は萩の武士の家に生まれ、幕末の京都で円山応挙の流れを汲む絵師となった。しかし、武士の血は流れていた。長州藩の品川弥二郎らと交流するうち、彼らが攘夷決行のため射撃訓練の的の絵を寛斎に依頼したのである。異人を見たことのない寛斎は、西洋皿か何かに描かれた異人を手本にこの図を描いたそうだ。
それだけではない。禁門の変以降朝敵となり京に居れなくなった長州藩にせっせと情報を運びスパイの役目もした。しかし、彼の描く絵はもちろん一級品、次回は彼の名画を解説しよう。
靖国神社は長州藩から始まった?
明治十二年(1879年)にできた靖国神社の初代宮司は、江戸時代毛利家の尊崇を集めた萩の椿八幡宮の宮司を務めた青山上総介という人である。靖国神社に行かれたことがある人なら、大鳥居の先にある銅像が長州藩出身で旧日本陸軍を創ったといわれる大村益次郎の像であることはご存知だろう。
こうなると、靖国神社は長州に関係する人が目立つ。幕末、吉田松陰をはじめ討幕のために命を落とした志士をまつる招魂場を長州藩が整備すると、祝詞をあげたのが青山上総介であった。高杉晋作が言い出した下関の桜山招魂場はよく知られている。また、尊王攘夷派が台頭する中藩庁が萩から山口に移ったのに合わせて、「山口明倫館」がつくられると、青山はそこで神道の研究・教授を行っている。この時、西洋式の兵学の研究・教授を行ない、第二次長州征伐で長州藩に勝利をもたらしたのが大村益次郎である。長州藩は、神道を精神面での柱としながら、軍備の近代化を図り討幕運動を成し遂げるのである。
大村は、明治維新で倒れた政府側の兵士の霊を慰めるために、長州藩を手本に招魂場を建設した。これが靖国神社の起源である。神社は高杉晋作や木戸孝允が剣術修行に汗を流したゆかりの地に建っており、そこに初代宮司として登場するのが青山上総介である。
(参考文献 堀雅昭著『靖国誕生』)