「五郎太石」とは、聞きなれない言葉だが、「石垣の表面の大きな石のすき間を埋める小石」のことである。
萩城は急いで築かれたためこういった類の石が不足したのだろうか、盗難事件が起こる。盗んだのは、萩城築城の責任者益田元祥(ますだもとなが)の組の者であった。
盗まれたのは天野元信(あまのもとのぶ)の組の石であった。益田氏は、戦国時代毛利氏に従うようになった。防長二国に封じ込めら財政的にも困窮を極めた毛利氏が抱えた財政問題を元祥が解決するなど、益田氏は毛利家にとってなくてはならない文官になっていた。
元祥は、自分の組の犯人を斬首するなど誠意を示したが、受け入れられなかった。元信の義理の父で毛利家重臣熊谷元直(くまがいもとなお)が出てくると穏便な解決はむつかしくなった。熊谷氏は、古くから毛利氏とは縁戚関係にある家で、五郎太石の盗難事件は、家臣の間での権力闘争の舞台とる。
さらに、熊谷氏や天野氏一族がキリシタンであったことが毛利輝元を怯えさせた。徳川家康がアジアの情報を収集する中で、フィリピンなどはキリシタンを支援するスペインの植民地になっており、キリシタンへの警戒を強めていたのである。当時国内のキリシタンは75万人といわれている。彼らの扱いは家康の重要な政策課題となっており、キリシタンが原因の藩内の騒動は、かろうじて防長二州で生き延びた毛利氏にとっては藩の存続をかけた大問題となる。輝元は熊谷氏や天野氏一族の誅伐を決断する。慶長十年(1605年)五月のことである。
平成十九年(2007年)ローマ法王ベネディクト16世は、元直ら188人を江戸幕府から迫害を受けた殉教者として承認している。萩の堀内の岩国屋敷跡には、明治時代萩カトリック教会の初代ビリオン神父の建てた元直らの殉教の顕彰碑がある。