松陰神社敷地内、境内入口左奥の隅にありに「薩長土連合密議之處」という石碑がある。
当時ここには鈴木勘蔵という人が営んでいた旅館があった。この旅館に坂本龍馬がやってきた。目的は松下村塾の高弟久坂玄瑞に、土佐勤王党の盟主武市半平太の書簡を渡すためである。たまたまそこには、薩摩藩士田上藤七が、尊王攘夷運動を進める誠忠組の樺山三円の書簡をもってやってきていた。時は文久二年一月で、長州藩は公武合体を推進する長井雅楽の「航海遠略」が藩論であった。しかし、久坂は、松陰の処刑後、長州藩の尊王攘夷運動の急先鋒となっていた。鈴木の旅館は、水面下ではあるが、後の「薩長土連合」の原型を作る場所となったのである。文久二年は、竜馬が萩にやってきた翌日に、江戸では「坂下門外の変」で老中安藤信正が襲われる。長州藩は「航海遠略」の方針転換が求められるようになっていく。ところで、坂本龍馬は、三者会談のあと藩校明倫館の剣術場〔現「有備館」:「有備館」は、もともと江戸の長州藩上屋敷の武道場、明治以降に剣術場に「有備館」の名をつける。〕で剣術の試合をしているのは有名で、その時は、明倫館の道を隔てて西北にある専用の宿舎に泊まっている。