吉田松陰は、安政六年(1859年)十月二十七日、幕府の手で行われた安政の大獄に連座し江戸伝馬町(現:中央区日本橋小伝馬町)の獄中で処刑される。遺体は、荒川区南千住にある回向院の墓に罪人として埋葬される。しかし、翌安政七年「桜田門外の変」で大老井伊直弼が殺害されると幕府の権威は失墜する。そこで、長州藩は朝廷をたてまつり攘夷を決行しようとする(奉勅攘夷)。文久三年(1863年)、松陰の門下生であった高杉晋作や伊藤博文らによって長州藩の領地であった世田谷区若林の地に改葬される。長州藩は、幕府によって「国賊」とされた松陰を長州藩の領地に改葬する。藩の尊皇攘夷のシンボルとして復権を図ったのである。 明治十五年(1882年)松陰先生門下の人々が墓のそばに社を築いて松陰の御霊を祭る。これが、松陰神社の始まりである。今日の社殿は昭和二年(1927年)頃に造営されたものである。
現在、「松陰神社」は、萩、世田谷区のほかに、東京都町田市玉川大学、秋田県大館市武村記念公園、山口県周南市山口放送本社、山口県阿武町萩高校奈古分校にある。