萩は、阿武川が分かれた橋本川と松本川とで囲まれた三角州の町だ。この三角州はどのようにしてできたのだろう。
もちろん、萩の町は、四百年前に毛利輝元が萩に移ってから町のデコレーションをつくり、今では「古地図で歩ける町」として有名だ。しかし、ケーキのファンデーションは、もっと昔から少しずつでき始めていた。4~5千年前、萩は大きな湾で島であった指月山と東の鶴江台との間には、波が砂を堆積し砂州ができた。砂州は発達を続け砂丘となり、長州藩の時代には西の「萩城」から東の「浜崎」まで人々が様々な街をつくった。
一方、阿武川から運ばれた土砂は、三角州の上流から次第に堆積される。その土砂に草木が生えると牛の放牧が可能になり、中央の勢力が及ぶと荘園となり、「牛牧庄」「川島庄」という名が見えるようになる。堆積が十分でない三角州の中央は湿地や湾のままだったりした。島だった指月山一帯は、戦国時代津和野を中心に勢力を張っていた「吉見氏」が館を造るなど城下町のたたずまいを見せ始め、萩城ができるときの工事で陸続きとなる。
三角州の外側はどうなっていたのだろうか。その昔は、「椿」(現在は阿武川を挟んで東を「椿東」、西を「椿西」という。)とよばれる「郷」とされ、松本川沿いの中津江あたりに交通拠点の「駅」が置かれ、文化の象徴であった「寺院」も建てられた。奈良時代には、中津江には「光安寺」(現在地名が残る。)、平安時代には「南明寺」(沖原)・「観音寺〔現在は長州藩の藩主たちが眠る大照院〕)」(青海)がそれである。
ところで、「萩」の名はどこから来たのだろうか。戦国時代、山口に館を構えた大内義隆が天文十九年(1550年)に記した文書の中に、松本川の東岸の鶴江台から中津江を指す言葉として「萩浦」の語がみられるのが最初である。