歌に「逢ふて嬉しや 明神様の 池の面に アノ躍る魚」とある明神池は、魚の躍る池だが、住んでいる魚は、タイやスズキと言った海にすむ魚である。明神池は、笠山と本土をつなぐ砂州に端が埋め残されたところが池になったもので、海とつながっている。そこで、江戸時代には、毛利のお殿様がこの池の端に御茶屋を設け魚料理と風景を楽しんだ。そこで池も「御茶屋の池」といった。
幕末、七卿落ち(しちきょうおち)で京都を追われた三条実美(さんじょうさねとみ)が、毛利敬親(もうりたかちか)の招きで御茶屋に遊び、泳ぐ魚をみて、「この国の濁らぬ水にすむ魚は 游(あそ)ふさまさへ勇ましきかな」と討幕に向かう長州藩をふるいたたせる歌を残している。
明神池の北畔には、「厳島(いつくしま)神社」がある。
厳島神社と言えば宮島であるが、この神社は毛利氏と深いかかわりがある。毛利元就が、当時山口を支配していた陶氏を「厳島の戦い」で滅ぼし中国一円支配の基礎をつくる。元就は、戦いの勝利と戦の血で神の地をけがしたことを深く悔い、毛利家の繁栄には厳島明神の信仰を抜きにしては考えられないと子どもたちに諭している。こうして、萩に移ったのちも厳島明神の信仰は大切であるとして、第三代藩主綱廣(つなひろ)の時に明神池のほとりに神社を勧進する。萩城の東北、鬼が出入りする不吉な方角、鬼門(きもん)の守り神の意味もあった。
厳島神社の後ろには、天然のクーラー「風穴(かざあな)」があり、夏などは特に観光客を喜ばせている。風穴は、笠山の溶岩の隙間の冬の間にたまった暖かい空気(外気は冬の間は冷たい)が、夏の間に吹き出てくるもので、古の貴人たちも、神社の参拝がてら涼んだのではないか。風穴の周辺には、コタニワタリやホソイノデといった寒いところに自生する植物を見ることができる。