ところで、須佐といえば「益田家」の話をしなければならない。 毛利輝元(もうりてるもと)が、関ヶ原の戦いに敗れ萩に城を築くと、益田家の当主「益田元祥(もとよし・もとなが)」は、輝元の命令で当時山陰の一寒村に過ぎなかった須佐の地を領有することになる。 当時の須佐は、現在の益田市を中心…
須佐之男命が立った須佐のシンボル高山にはいつのころか「黄帝社(こうていしゃ)」と呼ばれる神社が座った。 「黄帝」は、中国の伝説の帝で、航海・造船の神としてあがめられている。 日本に黄帝社があるのは珍しい。大陸と近い山口県、西の長門市には、唐の美女「楊貴妃(ようきひ)伝説」…
[caption id="attachment_319" align="alignnone" width="1024"] 須佐の公民館にある内田青虹(うちだせいこう、萩高卒)筆の高山に立つ「須佐之男命」の日本画[/caption] 神話の時代、出雲国に勢力のあった「須佐之男命(すさのおのみこと…
須佐は、萩の町から国道の191号線を北へ35キロメートルのところにある町で、さらに足を延ばせば益田市(島根県)がある。山陰海岸には珍しく小さな島々の浮かぶ波静かな風光明媚な「須佐湾」と神の山「高山(こうやま)」を抱えるエリアである。 [caption id="attachment_32…
山口市のシンボル瑠璃光寺五重塔(るりこうじごじゅうのとう)の近くの七尾山(ななおやま)のふもとにあるお寺で、あまり知られていないが豊臣秀吉の供養塔がある。 [caption id="attachment_347" align="alignnone" width="1024"] 俊龍寺[…
「豊臣家が滅亡した大坂の陣で、毛利輝元は豊臣方に味方する行動に出た。」といえば、「そんなことをすれば、外様の毛利藩はすぐとりつぶされる。」というのが歴史ファンならだれでも思うことだ。 しかし、輝元は、毛利元就(もとなり)の血を引く重臣内藤元盛(ないとうもともり)を「佐野道可」の名で藩を離れ…
「五郎太石」とは、聞きなれない言葉だが、「石垣の表面の大きな石のすき間を埋める小石」のことである。 [caption id="attachment_384" align="alignnone" width="1024"] 五郎太石[/caption] 萩城は急いで築かれたためこういった類…
「津和野(つわの)」といえば、「萩」と並んで有名な観光ルートとなっているが、萩に「萩城」があるように、津和野には「三本松城(さんぼんまつじょう)」という城があった。 [caption id="attachment_394" align="alignnone" width="275"] 三本松城…
萩の人はよく、「毛利輝元は、関ヶ原で負けて徳川家康の命令で、仕方なく山陰の田舎に城を築かされた。」と言うことがあり、萩を誇りに思えない理由の一つになっているように思う。 当然萩びいきの『萩市史』一巻を見ると、輝元が萩に城を築いた理由について、「①関ヶ原以前に輝元がいた広島に地形が似ている(三角州)…
萩城をつくったのは毛利輝元(もうりてるもと)である。しかし、現在は「史跡 萩城跡」となっているように、天守閣をはじめお城の遺構は残っていない。 それは明治七年(1874年)の「廃城令」によって取り壊されたためである。萩城跡は萩では「お城内」という。残っていれば「本丸」、指月山の頂上…