越ヶ浜の町が開かれたのは、江戸時代の延宝三年(1674年)に長州藩の代官所がおかれてからのこと。これを契機に民家ができはじめ、浦(漁村)としての体裁をとるようになったのである。もともと越ヶ浜は笠山と本土を結ぶ砂州が発達してできた土地である。かつては、高波が襲うと砂州を越えることもあったのか「…
歌に「逢ふて嬉しや 明神様の 池の面に アノ躍る魚」とある明神池は、魚の躍る池だが、住んでいる魚は、タイやスズキと言った海にすむ魚である。明神池は、笠山と本土をつなぐ砂州に端が埋め残されたところが池になったもので、海とつながっている。そこで、江戸時代には、毛利のお殿様がこの池の端に御茶屋を設け魚料理…
「伸びる港の 姿を見つつ たのしドライブ 笠山登山 逢ふて嬉しや 明神様(みょうじんさま)の 池の面に アノ躍る魚」、これはかつて唄われた萩小唄の一節。越ヶ浜の漁港を通り笠山へドライブ、その途中、風光明媚な明神池を歌っている。笠山から越ヶ浜一帯は、昔から観光スポットだった。 萩一番のパノラマビュー…
移転を記念して明倫館碑の文章を書いた学頭(学長)の山県大華は、中国から伝わってきた朱子学を教えていた。朱子学では、社会(これを「気」という。)の秩序は一定のきまり(これを「理」という。)に基づいて成り立っていると考える。中国では、皇帝が中心の社会が続いていた。社会の秩序が乱れてくると、王朝が交代し新…
観光客が「観徳門(かんとくもん)」のある入口から入ってすぐ目につくのが「有備館」である。 この建物は、建設当時「他国修行者引請剣槍修行場」で他藩の剣術や槍術の心得のある者との試合場として整備された。 「有備館」の名は、もともと江戸の長州藩上屋敷の武道場の名であったものを明…
明倫館の名は、中国の古典『孟子』の「皆人倫を明らかにするゆえんなり」からきている。江向に移転してからの教育内容は次の六科である。①経学(四書五経の学習と朱子学)、②歴史(中国と日本の歴史書)、③制度(中国の官制と日本古来の法制度)、④兵学(中国と日本の 用兵や戦術など)、⑤博学(天文・地理・経済など…
新明倫館の敷地は、現在萩市の観光起点「明倫学舎」として整備されている。 整備される以前は、「萩市立明倫小学校」で、観光客が多く出入りするところは、「南東門」と呼んでいた。 [caption id="attachment_822" align="alignnone" width="…
明倫館の堀内から現在ある江向(えむかい)へ移転は、長州藩の天保改革の文教施策として行われた。天保改革とは、第十三代藩主毛利敬親(たかちか)が、村田清風(むらたせいふう)らを登用して行った藩財政の立て直しと産業の振興を柱とする藩政改革である。加えて、アヘン戦争で清朝がイギリスに敗北、次は日本だという危…
現在の明倫館は、萩の観光起点「明倫学舎」となっている江向にある。しかし、創建当時は、上級武士の屋敷が立ち並ぶ堀内地区の南部にあった。 開校式は、今から三百年年前の享保四年(1719年)正月に行われた。 なぜ長州藩は明倫館を創ったのだろうか。明倫館を創設したのは、長州藩第五代藩…
今回は、大河ドラマ「花燃ゆ」で知られるようになった文(ふみ)のご主人楫取素彦を取り上げる。 素彦は文政十二年(1829年)、萩藩医松島瑞璠(ずいばん)の次男として現在熊谷(くまや)美術館のある魚棚沖(うおたなおき)町(現今魚店町)に生まれた。十二歳の時伊勢屋横町(現南古萩町)の小田村家…