明治以降の須佐では、久原房之助(くば[は]らふさのすけ)をおいては語れない。
久原家は、江戸時代、代々須佐の村役人である浦庄屋(うらじょうや)や御用商人などを務めた。ところが、文久三年(1863年)房之助の祖父半平(はんべい)が、侍の手にかかりむごい殺され方をする。
実はこの年、米の不作のため買い占めが起こっていた。益田家は、この年奇兵隊(きへいたい)が結成されことをよいことに、この事件を尊王攘夷派(そんのうじょういは)の仕業として、大きくなった御用商人の久原家をねたみつぶそうとしたふしがある。そのためか公職の村役人が殺されたにも関わらず藩は真相を究明しようとしない。そこで久原家は追われるように須佐を離れ萩に移り住む。房之助はこの混乱の中で誕生し、東京へ出て、東京商業学校(現一橋大学)や慶応大学で学び、叔父の「藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)」の経営していた藤田組に入社、秋田の小坂鉱山の再生に取り組む。のちに独立して「日立鉱山」(現「日立製作所」)を起こす。
さらに政界へ転身し、衆議院議員や立憲政友会(りっけんせいゆうかい)総裁を務める。
久原は父祖の地須佐へ強い思いをもち、須佐で内陸の鉱石の運搬などのため「久原波止場」を建設する。
また、奨学金制度を設けるなど須佐のために尽くす。奨学生の手で「久原房之助頌徳碑」が建っている。
なお、汽車や汽船の時刻表を作り「日本の時刻表の父」と呼ばれる手塚猛昌(てづかたけまさ)も須佐の出身である。