高杉晋作は、天保十年(1839年)萩城下呉服町の菊屋横丁(現在の南古萩)で生まれた。
家伝によると、高杉家の先祖は、戦国時代尼子家(あまごけ)の家臣であった武田小四郎春時である。尼子氏が毛利元就に敗れると、春時は元就に仕え、備後国高杉村(現広島県三次市)に住み姓を「武田」から「高杉」に改めたそうだ。
高杉家の家紋「武田菱」は「武田家」の家紋にさかのぼる。
高杉家の当主が対外的に正式に使う名は春時以来「春」の用い、晋作は「春風」である。晋作は通称。
関ヶ原の戦いに敗れ無念のうちに萩に移った毛利氏であるが、その恨みが幕末の長州藩の倒幕運動につながる。晋作は自分の墓には「毛利家恩古臣高杉某嫡子也」と刻むように指定している。
ところで、江戸時代の中頃、「坂時存(さかじぞん)」が、新田開発など新規事業を行う「撫育方(ぶいくがた)」という制度をつくり、藩の財政の立て直しに成功する。これが幕末の倒幕運動の資金源となる。坂のこどもが高杉家に養子に入っている。
晋作の四代前の当主で「高杉家中興の祖」と呼ばれる「高杉小左衛門春明」である。彼は、「米・塩・蝋(ろう)・紙[防長四白]」の特産品化に成功し藩の財政を潤す。晋作の父小左衛門春樹も、幕末の藩主敬親のもとで藩の事務を取り仕切る奥番頭などの要職を歴任しており、高杉家は、藩を動かすプライドをもった「毛利家恩古臣」だったのである。