晋作は、明倫館で学んでいたころ、机について学ぶこと(文学)よりも武術に熱心に取り組んでいた。
松下村塾で学ぶまでは自分は武で身を立てようと思っていたほどだ。特に弓術には優れており、十四歳の時、藩主の跡継ぎである世子の前で百本中九十本命中する腕前だった。また、内藤作兵衛から剣術を学び、二十二歳の時作兵衛から柳生新陰流の免許皆伝を授かっている。
万延元年(1860年)、晋作は特待生の代表である明倫館舎長に命じられる。その後、東北地方遊歴の旅に出る。そこで、福井藩に召し抱えられていた横井小楠(よこいしょうなん)を訪ねる。
小楠は、学問では、政治に有用な人材の育成が重要とする「学政一致」を掲げた。また、民を富ませる経済政策を重視した。この考え方が、幕末の変革をリードする福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の目に留まり藩の顧問となる。国産品を奨励し、長崎で商品化することで福井藩に利益をもたらした。
晋作はこういった小楠の思想に共鳴する。そこで、藩校明倫館の改革が求められると、晋作は小楠を明倫館の学頭に招こうとする。攘夷を掲げる幕末期の長州藩にあって、政治に有用な学問である「学政一致」の考え方や民を潤す経済政策を実践する小楠は「知の司令塔」として最適の人材だったのだ。後に下関開港計画を発表し、民を富ませ藩の幕府からの独立(大割拠)を主張するなど晋作にとって小楠の考え方はお手本であったのだ。