高杉晋作が、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門したのは、十九歳の安政四年(1857年)九月ごろのことであった。当時萩では、密航失敗の後幽閉中の松陰が塾を開いていると噂になっていたようで、過激な尊王攘夷思想を教える塾は、藩の高官を務める晋作の父の家などでは、通ってはならない学校であった。
入門の動機をたずねる松陰は、晋作に「志」をもつことの大切さを説く。ただ古典を学ぶのではなく、日米修好通商条約を朝廷に無断で締結する幕府をどう考えるかといったホットな時事問題に取り組む「志」を求めたのである。
明倫館で学んでいるときは、決して学問が好きではなく、剣で世に出ようとしていた晋作だったが、松下村塾に入ってみれば、知り合いの久坂玄瑞は「防長年少第一流」と松陰に評価されているではないか。
頑固で負けず嫌いが晋作の性格だと判断した松陰は、学問で一歩先を行っている久坂と競わせる。晋作が松下村塾で学んだのは、入門の翌年安政五年七月に江戸遊学に出るまでの一年足らずであったが、村塾では玄瑞とともに「双璧」と言われるまでになる。その陰には、晋作の性格を見抜き玄瑞と競わせることで「個性」を伸ばそうとした松陰の教育者としての目があるとよく言われる。
しかし、話は教育論に終わらない。幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)が日米修好通商条約を朝廷の勅許を得ないで調印すると、松陰は老中の真鍋詮房(まなべあきふさ)の暗殺を企て、暴力で幕府の姿勢を正そうとする。
松陰の教えを受けた晋作も、文久二年(1863年)の「英国公使館焼き討ち事件」に始まり、翌年には、幕府の密偵と噂された摂津高槻藩士宇野東楼(うのとうろう)を長州藩上屋敷内で殺害し、暴力で政局を動かそうとする。激動の幕末を駆け抜けた志士たちの生きざまがそこにある。
ところで、現在私は、「茶寮花南理(はななり)の庭」を10月のオープンを目指して宿泊施設に改修してお宿とするため、クラウンドファンディングREADYFORによるプロジェクト「四百年の古美術・百年の庭と茶室。萩の歴史と自然に浸る宿実現へ」(URLは、https://readyfor.jp/projects/hananari)を行っています。「萩ファン」の皆さまのご支援をお
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