吉田松陰は、「安政の大獄」で幕府の大老井伊直弼によって伝馬町の牢屋敷で処刑される。牢屋敷は、現在十思(じゅっし)公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)となっている一角にあった。
安政の大獄は、ご存知の通り、朝廷に無断で幕府が日米修好通商条約を結んだことに反対する尊王攘夷の志士や公家たちを弾圧した事件である。最初松陰は、志士の一人である梅田雲浜(うめだうんぴん)とはかりごとをしたのではないかと疑われて投獄されるが、その疑いは間もなく晴れる。しかし、勤王の士である松陰は、自らの信念「至誠」に基づき、幕府の姿勢を正すための老中間部詮勝の襲撃計画をほのめかし処刑される。
公園内には、松陰にまつわる石碑が三基ある。
中央には、松陰の辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂」と松陰の筆跡で刻まれた石碑が大きく座っている。
「大和魂」とは、幕府の非を正そうとする「至誠」の心である。この辞世は、松陰が獄中で書いた『留魂録』にある句である。
『留魂録』は二通つくられた。一通は塾生の間で書き写され現在は行き方知れずである。一通は、同囚の沼崎吉五郎が所持し、二十年後に松下村塾の塾生で、神奈川県令(知事)を務めていた野村靖に手渡され、現在は萩の松陰神社が所蔵している。沼崎吉五郎は、松陰の子弟が祭られている松門神社に合祀されている。
また、向かって右側には、萩城の毛利家の氏神である宮崎八幡宮址から掘り出した石で造られた「吉田松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑がある。左は顕彰碑である。