観光客が「観徳門(かんとくもん)」のある入口から入ってすぐ目につくのが「有備館」である。
この建物は、建設当時「他国修行者引請剣槍修行場」で他藩の剣術や槍術の心得のある者との試合場として整備された。
「有備館」の名は、もともと江戸の長州藩上屋敷の武道場の名であったものを明治以降にこの「修行場」に「有備館」の名をつけたのである。
坂本龍馬が、ここで少年剣士と試合を行ったと伝わるのは、文久二年(1862年)一月のことである。しかし、龍馬は、剣術修行のために萩にやってきたのではない。この当時、長州藩は、「公武合体」を推し進める長井雅楽(ながいうた)の「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」が用いられ、朝廷と開国を推し進める幕府の間を取りもつ政治上重要な藩になっていた。しかし、それでは幕府の方針に反旗を翻し処刑された吉田松陰(よしだしょういん)の立場はない。松下村塾の塾生のリーダー・久坂玄瑞(くさかげんずい)は、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」のネットワークを他藩にも広げようとしていた。そこに登場したのが、「土佐勤王党(とさきんのうとう)」を結成し土佐で尊王攘夷を推し進める武市半平太(たけちはんぺいた)である。半平太は、玄瑞宛の書状を龍馬にたくしたのでたった。龍馬は、現在の松陰神社にあった旅館に泊まり、久坂玄瑞と会談。尊王攘夷の実現とは真反対の進んでいる現状に、下級武士の力で現状を変えようとする「草莽崛起(そうもうくっき)」を唱える。旅館には、同じく尊王攘夷を進める薩摩(さつま)藩士もたまたま居合わせた。萩は、期せずした「薩長土連合(さちょうどれんごう)」の原型を作る場所となったのである。