移転を記念して明倫館碑の文章を書いた学頭(学長)の山県大華は、中国から伝わってきた朱子学を教えていた。朱子学では、社会(これを「気」という。)の秩序は一定のきまり(これを「理」という。)に基づいて成り立っていると考える。中国では、皇帝が中心の社会が続いていた。社会の秩序が乱れてくると、王朝が交代し新しい優秀な皇帝が登場し社会秩序は維持されるのがきまりであった。ところが、このきまりだとアヘン戦争のような中国の文化圏以外からの侵略の事態には対応できない。ここに学長・山県大華の考え方の限界があった。これに対して、わずか九歳で明倫館の先生となった吉田松陰は、日本は古来天皇を戴く国だから、王朝の交代はありえないと主張し、外国の侵略に対しては、天皇を中心にして日本の平和を図る「尊皇攘夷(そんのうじょい)」の考え方が大事だとする。当時七十代半ばで病のため字を書くこともままならない大華と新進気鋭の松陰との論争はこのような形で展開された。ご承知のとおり、松陰は時代の変化に対応する柔軟な考え方で私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」の中心人物となる。アメリカの開国要求に対しては、まず海軍力の整備と通商による国力の充実が大切で、その後に開国すべきだとする独自の「攘夷」を唱える。この考え方は松下村塾の塾生たちに受け継がれる。現在の「国際協調(こくさいきょうちょう)」の考え方に通じるものがある。
2019
01Aug