この図の人物は楠木正成とその子正行である。正成は、14世紀南北朝のころの武将。南朝の後醍醐天皇に忠誠を誓い、北朝の後ろ盾で室町幕府を開いた足利尊氏と戦い自刃した。この図では、正成が正行に 「一緒に行って勝ち目のない戦をするより、命を大切にし天皇への忠義をつくしいつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭す「桜井の別れ」という場面を描いている。
ところで、神戸にある正成の墓に吉田松陰は何度となくお参りしている。武士の世を終わらせ天皇を中心とする国をつくる尊王攘夷思想に燃えた松陰は、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇を中心とする政権をつくろうとして志半ばで散った正成を神ともあがめる気持ちであったろう。
この図を描いた森寛斎(文化二年(1814年)~明治二十七年(1894年))は、萩藩の武士の家に生まれた絵師である。京都に出て円山応挙の弟子たちの中で学んだ。武士の家に生まれた寛斎は、尊王思想に共鳴した。絵師の仕事を隠れ蓑にしながら、萩藩のスパイとして京都の志士や公家たちとの連絡をとり明治維新に一役買った。絵は、天皇への忠義のための別れの場面にふさわしく、日本で古くから描かれたやまと絵のスタイルである。スパイとは思えない穏やかで気品がただよう作品に仕上がっている。