高島北海(嘉永三年(1850年)~ 昭和六年(1931年))といえば、フランスのナンシーで植物を研究するかたわら、花鳥画を通じて日本にあこがれるアール・ヌーボーの芸術家(ジャポニスム)と交流があったことで知られている。しかし、北海は若いころ地質学を学び地質図を作成しており、山水画も描いていた。
山水画といえば、そのふるさとである中国に57歳の時に行っている。唐の都長安(現在の西安市)から三国志の蜀の都成都(現在の四川省成都市)につづく山岳の険しい風景(蜀道)をスケッチしており、本図はそれをもとに描かれたものの一つではないか。
絵は、徳山(現在の周南市)出身の南画家大庭学僊から手ほどきを受け、山水画も多く描いている。本図は、縦長の掛け軸に近景の山道から遠景の険しい山岳を見上げるように描いている。着色も鮮やかで、青はるり色を使っており、緑は緑青であろうか。北海が最も得意とする写生風の近代的山水画に仕上がっている。
なお、「長門峡」の命名も北海で、彼の運動があって長門峡や青海島(長門市)・石柱渓(美祢市)・須佐湾(萩市)が国指定の名勝となっている。