このご老人いったい何をしているのだろ。実は、精米する「米つき」をしているのである。では、いったい何者か。この人こそ日本でも広がった禅宗の源をつくった中国の禅僧慧能という人だ。彼は、貧しい家庭に生まれ字が読めなかった。しかし、出家を思いたち、字が読めないため寺の「米つき」などの雑用をしていたが、「学問や修行を積み重ねなくても、真実に気づき見通すことによって一気に悟りに到達できる。」と主張し、禅宗に新たな光を当てた。この教えが日本に伝わった禅宗のルーツである。ところで、禅宗は、ご存じのとおり元々達磨がインドから中国に伝えたものである。達磨には、雪舟の絵で有名な、自分の腕を切り落としてまで教えを乞うた慧可という弟子がいる。では、慧能はどうかというと、慧可から数えて5代目の弟子で「六祖慧能」である。
描いたのは雲谷等益(天正十九年(1591年)~寛永二十一年(1644年)。「雪舟四代」を名乗る萩藩が抱えた雪舟の後継者の一人である。絵は極めてシンプルである。手抜きか、いやそうではない。減筆体といって、シンプルな絵ではあるが、慧能のまなざしの中に悟りに迫ろうとする姿を見て取ることができる。禅宗の新たな境地を拓いた高僧としてのオーラを感じとることができる作品である。