左上の老人が太公望である。太公望は釣りの名人で、えびす様を連想される方も多いかもしれないが、実は、3千年も前の中国の王朝周の初期に活躍した軍師なのだ。太公望は、彼が公職についていないで釣三昧の生活を送っていたころのニックネーム。本名は呂尚という。なかなかの軍師で、その才を見込んだ周の文王がスカウトし周の土台をつくることになる。もちろんの右下に描かれているいかにも君子といった姿をした人が文王である。
この絵を描いた小田海僊〔天明五年(1785年)~ 文久二年(1862年)〕は、江戸時代後期に活躍した絵師である。下関で絵の手ほどきを受け、京都で呉春に学ぶ。彼が、京都で活躍し萩藩に仕える絵師として認められたころには「百谷」の号を使っている。絵の特徴は、おだやかな顔立ちを特徴とする海僊にしては、迫力を感じさせる作品に仕上がっている。顔の表現はくすんだ黄赤(代赭)の隈による立体表現となっており、海僊の特徴をよく示している。