高杉晋作と言えば「奇兵隊(きへいたい)」である。文久三年(1863年)五月攘夷決行を行った長州藩に列強が攻撃、敗北すると、藩は守りの姿勢に転換を迫られる。そこで登場するのが晋作である。晋作は、六月藩主に藩の正規軍「先鋒隊(せんぽうたい)」を補うための軍隊である「奇兵隊」の結成を進言し自ら総督となる。
元治元年(1864年)十二月から始まる「元治(げんじ)の内訌(ないこうい)」と呼ばれる幕府への藩の姿勢を巡るうちわもめで、倒幕を主張する「正義派」の晋作が幕府に恭順を示す「俗論派(ぞくろんは)」を破る。晋作は、この蜂起で「尊王攘夷」という大業を為すため死を覚悟した。そこで、自分の墓には「毛利恩古臣高杉某嫡子也」と「故奇兵隊開闢総督高杉晋作」と記すようにと遺言している。晋作には、藩の重臣「高杉家」に生まれた誇りがある一方で、大業のために自分がつくった「奇兵隊」の首領という二つの顔を残そうとした。元々藩の常備軍である「先鋒隊」を補うために晋作は百姓や町人も半数いる「奇兵隊」をつくったが、両者の間には激しい対立があった。奇兵隊には、山県有朋(やまがたありとも)なども加わっており幕末の志士の心の内を見ることができる。
応元年(1865年)幕府方が長州藩を倒そうした第二次幕(ばくちょう)長戦争が起こる。劣勢と思われた長州藩ではあるが、口火を切った「大島口の戦い」での晋作の奇襲作戦による勝利。さらに、「小倉口の戦い」では、晋作は参謀として奇兵隊・報国隊(ほうこくたい、長府藩)などを指揮し、幕府方を撃退する。まさに「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」の活躍である。しかし、戦いの途中から結核が悪化し、愛人うのの看病もむなしく四月十三日に他界する。享年二十九歳。遺骸は、下関の萩藩領吉田村清水山(しみずやま)に土葬される。萩の吉田松陰の墓のそばには、晋作のへその緒と遺髪を埋めた墓も建てられている。
2020
18Apr