幕末には、浜崎に梅屋七兵衛(うめやしちべえ)という藩の武器を扱う御用商人が登場する。七兵衛は、倒幕の旗印を掲げた長州にイギリスから千丁の鉄砲の密輸した商人である。豪商の須子家には、須子小五郎(すここごろう)が出る。彼は、尊王攘夷の志に燃え禁門の変で十九歳の若さで戦死する。また、吉田家の菩提寺(ぼだいじ)である泉福寺(せんぷくじ)には、吉田松陰(よしだしょういん)の位牌がある。
明治維新により士族が職を失い萩を出ると、浜崎の町は萩の経済活動の中心地となった。当時の浜崎は、船の積み荷を運ぶ「廻漕業(かいそうぎょう)」が盛んであった。船の貨物を運ぶ作業員である「仲師(なかし)」は、江戸時代から活躍しており、「置倉」とよばれる荷上場を中心に明治・大正時代に活躍した。
明治・大正時代に浜崎を支えたもう一つの産業が「水産加工業」であった。近代的な魚市場ができると、浜近くにはカタクチイワシなどを天日干しにして加工する「イリコ」の生産が盛んとなった。浜崎は、大阪・三津浜(現愛媛県松山市)と並んで国内有数の魚市場として大いに繁栄した。現在は、海岸沿いの「たつち商店」が、海産物の小売りをしており、日本海を眺めながらカタクチイワシの「シラス丼」などを味わうことができる。
大正十四年(1925年)に美祢線(みねせん、現山陰本線)が萩駅まで開通すると、海の流通は衰え浜崎の経済を支えた「廻漕業」は衰退した。しかし、「水産加工業」は盛んで、「蒲鉾(かまぼこ)」の製造が町屋で盛んに行われた。「廻漕業」に使われた土地には、魚の運搬に使う氷をつくる製氷工場が建てられた。これに加えて、大陸市場をねらった「イリコ」、さらには「夏蜜柑」の商いが盛んに行われた。しかし、終戦後は、大陸市場を失い、「水産加工業」もかつての活況はなく浜崎の町も衰退の一途を辿った。