浜崎は、萩の三角州の北東のはし、松本川の河口の日本海に面した町である。毛利輝元(もうりてるもと)が慶長九年(1604年)萩城の建設を始めるころには、魚などをなりわいにした人々の営みがすでにあったようだ。やがて藩は、浜崎などを監督する代官所をつくる。萩藩が藩内の地方行政組織として慶安三年(1650年)に「宰判(さいばん)」を置くと、浜崎は、「浜崎宰判」に入り、「御船倉(おふなぐら)」に「勘場(かんば)」と呼ばれる役所を置いた。浜崎宰判は日本海に面す浜崎・三見(さんみ)・玉江(たまえ)・鶴江(つるえ)・小畑(おばた)・越ケ浜(こしがはま)・大井(おおい)の7つの浦と萩沖の大島(おおしま)・相島(あいしま)・櫃島(ひつしま)・羽島(はじま)・尾島(おしま)・肥島(ひしま)・見島(みしま)の7つの島を治めた。
ところで、「勘場」が置かれた「御船倉」とは何だろう。「御船倉」は、萩城築城後、藩主の乗る御座船(ござぶね)を格納する施設として松本川に面して建てられた。はじめは3棟、後に4棟の船倉があったが、現在は、周囲が埋め立てられ、陸地にポツンと1棟のみ残されている。倉は、かつての毛利水軍の息づかいを伝える立派なもので、笠山から運んだ玄武岩(げんぶがん)と呼ばれる火山岩で厚さ6mの壁が造られている。屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構である。
浜崎の町の西側に住吉神社(すみよしじんじゃ)がある。この神社のはじまりは、明暦元年(1655年)浜崎の商人が大坂で暴風に会った時、海の神を祭る住吉大社に浜崎に住吉神社を建立すると祈ったところ海難をのがれたことに由来する。商人たちは住吉神社を浜崎に勧進(かんじん)しようとしたが、適当な場所がないため、最初は対岸の鶴江(つるえ)に勧進し、万治元年(1658年)浜崎にお社を建てた。
住吉神社を勧進した商人とは、「北国問屋仲間(ほっこくどんやなかま)」と呼ばれる日本海と大坂を結ぶ西廻り廻船(にしまわりかいせん)の商人たちである。陸路を使わず商品を商都大坂に運ぶ割安なこの商業ルートは、十七世紀の後半には脚光をあびるようになり、浜崎の町も飛躍的に発展し、西廻り廻船を利用した米・材木・酒などを取り引きする商人の活動が盛んになる。「豪商」も登場する。しかし、「北国問屋仲間」の活動は、浜崎が松本川の河口にあり、川の運ぶ土砂が堆積し水深が浅いため、船の大型化にともなって近くの越ケ浜などに拠点を移すことになった。
十七世紀の後半には魚市場がつくられ、魚人のまち「魚人町(りょうどまち)」が「御船倉」の南に埋め立て地につくられ漁業も盛んに行われた。