「円山応挙」は萩の生まれだった?
「円山応挙」という名を聞かれた方は多いだろう。江戸時代、京都で活躍した絵師である。その絵師が萩の生まれだったと言えば、皆さん驚かれるだろう。実はそんなことはない。しかし、「明治の応挙」といえば本当である。幕末から明治にかけて京都を中心に活躍した「明治の応挙」と呼ばれる絵師は萩の生まれである。彼は、京都で応挙の優れた弟子のもとで修業を積んだ。
絵師の名は森寛斎。応挙が西洋の絵画から取り入れた遠近法や、付立と呼ばれる水墨画に立体感をもたらす工夫など、多くの影響を受けている。
ところで、寛斎は武士の家の生まれということもあって、幕末は長州藩(ちょうしゅうはん)のスパイとして活躍した。しかし、明治になると画業に専念。現代で言えば「人間国宝(にんげんこくほう)」の「帝室技芸員(ていしつぎげいいん)」になっている。「花南理(はななり)の庭美術館」にある『楠公送訓之図(なんこうそうくんのず)』は寛斎の作品である。 死を決して「湊川(みなとがわ)の戦い」に臨む
楠木正成(くすのきまさしげ)が、息子の正行(まさつら)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の南朝(なんちょう)を託す別れの場面を描いている。しかし、寛斎の人物画らしく上品で情緒豊かな仕上がりとなっている。
吉田松陰はいつ神様になったのか?
松陰神社に祭られているのは、みなさんご存知の吉田松陰である。松陰は、天皇を尊ぶ尊王思想の持ち主であった。そのため、当時の孝明天皇の意に反して開国の条約を結んだ幕府の過ちを正すことが、自分のまごころ (至誠)と考えていた。しかし、幕府の大老である井伊直弼は、安政六年(1859年)「安政の大獄」で松陰を死刑に処した。
首をはねられた松陰は、当時彼の教えを受けた尊皇攘夷の志士や地元の人は別として、他の地域ではほとんど無名に近い人物だったようだ。では、その松陰が神様として祭られるのはいつのことか。松陰神社発行の『吉田松陰先生と松陰神社』によれば、明治二十三年(1890年)に松陰の実家杉家の人は小さな社を建てた。これが松陰神社の始まりである。明治四十年には、松下村塾の塾生で初代総理大臣を務めた伊藤博文らを中心に神社を公のものにしようという運動がおこり、現在の松陰神社が誕生した。
しかし、明治も終わりになって初めて松陰は祭られたわけではない。実は松陰の刑死後、高杉晋作と並んで「松下村塾の双璧」と言われた松陰の義弟(妹文の夫)で久坂玄瑞らによって、尊王攘夷のシンボルとなり神様になったのだ。
尊王思想の持ち主であった松陰は、後醍醐天皇のために室町幕府を立てる足利尊氏らと戦い亡くなった楠木正成を神と拝んでいた。文久三年(1863年)「8・18クーデター」で薩摩藩にしてやられ京都を追われた長州藩は、孝明天皇の意を奉り尊王攘夷の雄として京都の奪還を目指す。そこで、藩主毛利敬親を中心に楠木正成を祭る「楠公祭」を行い、あわせて松陰ら尊王攘夷のために命を落とした藩士たちも神様として祭られた。この時の運動の中心が久坂玄瑞である。こうして、吉田松陰は神様として祭られるようになったのである。
(参考文献 一坂太郎著『吉田松陰-久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』)