江戸時代に興った浜崎の豪商の代表に山県家(やまがたけ)と須子家(すこけ)がある。
山県家は、かつては多賀谷(たがや)を名のる毛利家の家臣であったが、浜崎が西廻り航路(にしまわりこうろ)の寄港地として開発が進むと「山県」を名のり町人となった。山県家は、西廻り航路で運ばれてくる北国の材木を取り扱い財をなした。十七世紀の終わりごろから藩の財政が窮乏すると御用銀(ごようぎん)というお金を納め、藩の財政とも深いかかわりをもつようになった。しかし、十八世紀後半、藩が借入いれたお金の利息を下げると山県家は打撃を受け御用商人から身を引いて衰えていった。
須子家は、室町時代は大内家の家臣であった。江戸時代は、毛利家の家臣となり、山県家と同じころに一族が商人として活動を始めた。酒造業を営むかたわら、西廻り航路の北前船(きたまえぶね)との交易を行い豪商となった。十八世紀の半ば、藩が浜崎の町のまつりごとを町人に行わせるようになると、責任者の「町年寄」を須子家が務め浜崎のドンとして活躍する。現在も住吉神社近くに昔をしのばせる家が残っている。