松林桂月筆 「春宵花影」はなぜ人気があるのか?
『お宝鑑定団』に登場して有名になった松林桂月の「春宵花影」。朧月に浮かぶ夜桜を描いた桂月の水墨画の代表作である。もっとも馬屋原家が所蔵する作品は、ニューヨークで開催された万国博覧会に出品した同名の作品が好評だったので、萩出身の桂月に描いてもらったものだろう。
ではなぜ人気の作品なのだろう。「春宵花影」自体は、中国の蘇軾という詩人の作品をイメージしたものである。多くの水墨画が「昔のもの」と感じさせるのに対して、桂月は、水墨画の世界に新風を吹き込もうと、現在では世界中にファンをもつ尾形光琳ら「琳派」が好んだ「たらし込み」という技法を用いた。「たらし込み」とは、薄い墨の上に濃い墨を自由自在に重ねた柔らかい抑揚のある表現方法で、光琳の「風神雷神図屏風」の雲は「たらし込み」の技法を用いている。桂月は、日本の代表的な花である桜を、アメリカ人も共感をする「現代」の作品として描いたのである。
毛利家が起こした明治維新?
今年は明治維新150年。花南理の庭美術館もこれにちなんで毛利敬親の書など明治維新に関連する作品を4点展示しています。ぜひご覧ください。
ところで、萩藩主の毛利公と家老の新年の挨拶は、家老が「殿、徳川追討の件、今年はいかがいたしましょうか。」と伺いを立てると、藩主が「いや、まだ早い。その件は来年に延期するとしよう。」だったという話がある。その真偽はわからないようだ。しかし、よく知られているように、萩藩は関ヶ原の戦いで敗北し領地を4分の1に削られたが、家臣たちはリストラもなんのその、毛利家を慕って萩についてきた。そんな徳川家へのリストラの恨みがこの会話になったのか。しかし、その奥にはもう少し深いものがあった。
それを探るには、毛利家のルーツを手繰る必要がある。毛利家は、戦国時代安芸国(現在の広島)に勢力を張った国人と呼ばれる武士だった。江戸幕府を作った徳川家は、三河国(現在の愛知県東部)の国人だった。そこは同じだが、毛利家は、単なる武士ではなく、ご先祖をたどれば、平安時代の初めにいた阿保親王(あぼしんのう)という皇族にたどり着く。阿保親王は「一品(いっぽん)」という天皇の第一皇子を意味する位を送られていることから、毛利家はこれを図案化し家紋を「一に三ツ星」としている。「毛利」を名乗るのは、鎌倉時代相模国毛利荘(現神奈川県厚木市)を所有したからである。
江戸時代、幕府は大名が朝廷に接近することを嫌うが、毛利家だけは年賀の儀礼を行うなど「親戚づきあい」を許された唯一の大名だった。また、阿保親王の墓である親王塚(兵庫県芦屋市緑ヶ丘町)には、毛利家は4対の石燈籠を寄進している。
この朝廷と毛利家の関係は、毛利家の家臣にも沁みついており、尊王思想を生み出し、吉田松陰や高杉晋作の行動を通して具体的な徳川追討の形となったのである。