雪舟の絵は萩で描き続けられた?
図は、寛文年間(1661~73年)頃の萩の城下絵図の一部である。「吉川」の文字が見えるので、当時岩国の吉川家の広大な敷地のあった萩城の南の一角、現在萩八景遊覧船が走る堀内疎水の付近だろう。(この疎水は大正時代の終わりごろにできた。)図に見える「等與」「等作」「等宅」「等的」などの文字は、いずれも姓を「雲谷」という萩藩お抱え絵師の住まいである。「雲谷」は、元々室町時代雪舟が山口でアトリエとしていた庵の名である。毛利輝元がこの庵と雪舟の描いた国宝の「四季山水図」を絵師に与え、雪舟スタイルの絵を保護したのである。この絵師の集団を「雲谷派」といい、「等與」は、「雪舟五代」を名乗っている。「雲谷家」は毛利家から二百石以上が与えられた時もあったようで絵師としては破格の扱いを受けたのである。関ヶ原の戦いに敗れた輝元は、防長二州に抑え込まれたが、雪舟の絵と萩焼は自慢したかったのだろう。
吉田松陰は「国際協調」を主張した?
「尊王攘夷」といえば、明治になっておこった征韓論や日露戦争などと結びつけた「侵略」のイメージで語られることがある。この考え方をリードしたのが「吉田松陰」だと指摘される。しかし、果たしてそうだろうか。
松陰が、三十歳で亡くなる前に伝馬町の獄で著したものに『留魂録』がある。その一節に、「世(自分)が苦心せし航海雄略等の論」を幕府が無視したことを不満としている。この「航海雄略」は松陰が最後に述べた彼の「外交思想」といえる。
では、「航海雄略」とはどういう「外交思想」だろうか。この内容が記されているのが安政五年(1858年)の『対策一道』である。この年は、アメリカのT・ハリスが強引に日米修好通商条約の締結を求めた年だ。締結の前に、幕府は朝廷の勅許を得ようと考えたが、時の孝明天皇は、幕府に諸藩の意見を聞いたうえで改めて願い出るようにいった。これを知った松陰は、自分の考えを『対策一道』として著し、T・ハリスの強引な開国に反対、松陰独自の「攘夷思想」を展開する。外国を打ち払う「攘夷」とは、まず「海軍力の整備」を行い、その後に「通商」を行い「条約」を結び「開国」を進め、日本の独立を確保することだとした。この過程は三年もあれば実現できるとしているところなど非常に楽観的だが、当時の世界情勢の下で「通商」を行わなければ日本は衰退・滅亡すると主張した。この指摘は松陰が当時の国際情勢をよく理解・分析して出した結論と言えよう。天皇を戴く日本で「尊王攘夷」とは、決して他国を排斥するのではなく、「通商」を通して国の繁栄が大切だとする現代で言えば「国際協調」ともいえる考え方だ。これが死を前に松陰が考えた「尊王攘夷」の到達点である。
萩高校のOBで、「国家安全保障会議」の事務局次長を務める兼原信克氏は、萩での講演で「現在、二十世紀と比べると自由で開かれた民主的な社会が多くの国で実現されつつある。」とした上で、二十一世紀の現在は、「明治維新を見ることなく亡くなった松陰先生がきっと夢見た人類社会」と結んでいる。
(参考文献 桐原健真著 『吉田松陰-日本を発見した思想家』)