鎌倉時代の十三世紀、のちに長州藩の「永代家老」をつとめた益田家の一族御神本兼定(みかもとかねさだ、当時は「御神本」を名のった。)が周布郷(現 浜田市周布町)の地頭となって周布氏を称するようになり、周布城(鳶巣城(とびのすじょう))が築かれた。城山の麓には聖徳太子(しょうとくたいし)が開いたといわれる周布家の菩提寺の聖徳寺(しょうとくじ)があり、みごとな雪舟庭園(せっしゅうていえん)を見ることができる。
戦国時代に入ると、周布氏は、朝鮮との貿易に目をつけ富を得るとともに、山口の大内氏に従うようになり、尼子氏(あまごし)に付いた益田氏と争った。大内氏滅亡後は毛利氏に周布城を攻められると、毛利氏に従うようになった。
関ヶ原の戦いで、毛利輝元(もうりてるもと)が敗れると当主周布長次(ながつぐ)も輝元に従い萩に移る。江戸時代周布氏は、毛利家直属の家臣である大組の筆頭格で千五百三十石であった。
幕末には、分家の一族から現在の長門市三隅に移り住んでいた周布政之助(すふまさのすけ)が出た。
政之助は、同じく三隅出身で政之助の親戚筋にあたる長州藩の重臣村田清風(むらたせいふう)に感化され、尊王攘夷運動の中心人物として藩を率いた「維新の英傑」である。