「泰平のねむりをさます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も眠られず」これはペリーが嘉永六年(1853年)初めて日本にやってきた時にできた江戸ではやった皆さんごぞんじの川柳。「上喜撰」は、カフェインたっぷり(?)の上等のお茶のことで、「蒸気船」と掛け合わせて、幕府のあわてぶりを皮肉った歌である。ここで登場する「蒸気船」は「黒船」とも呼ばれた木造船だが、鉄製の蒸気機関と船外についた鉄の水かき(外輪)で進んだ。
ところで、蒸気機関の技術がなかった日本では、「蒸気船」は造れない。「恵美寿ヶ鼻造船所」で安政三年(1857年)に木造の洋式帆船「丙辰丸(へいしんまる)」を建造される。鎖国時代、幕府は諸藩の水軍力を弱めるため木造の大船の建造さえも禁じていた。ところが、黒船来航であわてた幕府や有力諸藩は、木造帆船ではあったが自力で洋式軍艦の建造に取り組むことになった。
長州藩の軍艦建造のリーダーは木戸孝允(きどたかよし)であった。幕府は、戸田村(へだむら、現静岡県沼津市)で遭難したロシアの軍艦の代船の建造を進めていた。木戸は、この洋式造船技術を長州藩に採り入れ恵美寿ヶ鼻造船所を建設した。
この造船所跡には、スクーネル打建木屋[ドッグ](船の組み立てを行う)、蒸気製作木屋(蒸気で船材を曲げる)、絵図木屋(原寸大の図面をおこす)、切組木屋(部材を組み立てる)、網製作木屋(船のロープをつくる)などの跡が確認される。また、船に使う船釘(ふなくぎ)や碇(いかり)は、日本古来のたたら製鉄技術をもつ「大板山たたら製鉄遺跡」で作られた鉄を「カジ(鍛冶)場」で加工した。
「丙辰丸」進水から4年後の万延元年(1860年)には、オランダ人の知識と技術をもとに作られた「庚申丸(こうしんまる)」が造られた。
造船所跡の近くには、海を眺めながら食事が最高のレストラン「ヴァン・ヴェール」がおすすめ。