「津和野(つわの)」といえば、「萩」と並んで有名な観光ルートとなっているが、萩に「萩城」があるように、津和野には「三本松城(さんぼんまつじょう)」という城があった。
この城の主は、戦国時代「吉見氏」で、石見(いわみ)国(島根県西部)では、現在の益田(ますだ)市を中心に勢力を張る「益田氏」と覇を争う太守であった。
中でも吉見正頼(まさより)は、大内氏らを滅ぼし毛利元就(もうりもとなり)とともに防長支配を果たした。正頼は、萩の指月に館を構えた。
萩は、内陸の覇者吉見氏の海への出口だった。
関ヶ原の戦いの時吉見氏の当主は広長(ひろなが)であった。彼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で加藤清正(かとうきよまさ)を驚かすなど武勇の誉れが高く、毛利輝元は伯父にあたる。しかし、怒りっぽい性格で、領地を巡る不満を輝元にぶつけ姿をくらましてしまい、彼の怒りを買ったことがあった。
関ヶ原の敗戦で毛利氏が防長二国に閉じ込められ、石高が4分の1に削られると、吉見氏の石高は7分の1以下の一万五千石から二千石までに激減した。
ライバルの益田元祥(ますだもとなが)が、小さくなった毛利藩の財政問題を解決するなど輝元の信任を得て、やがて「永代家老(えいたいかろう)」の地位を座ることになる。
一方で、広長は見捨てられた格好だ。彼は、慶長九年(1604年)輝元が萩城に入ると間もなくまた姿をくらまし、再度輝元の怒りを買う。
武勇の広長は、徳川家康や細川忠興(ほそかわただおき)らに仕官を図ったがかなえられず諸国を流浪する。(裏から輝元の手が回ったようだ。)元和三年(1617年)十有余年の流浪の末萩に帰国することになる。輝元は伯父という立場もあり彼を許し二百石で召し抱える。しかし、翌年には輝元毒殺のうわさが流れ、平安古の屋敷を取り囲まれ自刃する。
その背景には、戦国の世を毛利氏と駆け抜けた誇り高い武の吉見氏と、徳川幕府の支配に柔軟に対応しようとした文の官僚益田氏との間の権力闘争があったようだ。