松陰神社の南側の松本新道を少し行くと左手に松下村塾の四天王の一人吉田稔麿(よしだとしまろ)誕生地の碑がある。
松下村塾の近くにあるから同姓の松陰の親戚かというとそうではない。稔麿の家は最下級武士の家で「姓」もなく、後から自分で名のったそうだ。しかし、四天王と呼ばれるくらいで、塾生で明治政府で内務大臣などを務めた品川弥二郎などは、「生きていたら稔麿は総理大臣になっていた。」と言っている。塾生の中ではナンバー・ワンの人物だったようだ。しかし、算盤勘定に長け真摯に学ばない態度を松陰に指摘され、「無逸(正道から外れ思うようにふるまうことがないように)」という字(あざな、実名以外の名)を与えられている。松陰の再入獄を巡っては、藩のとがめをかわすため、松陰怒りを買い村塾から距離をおいている。文久三年(1863年)の「8・18クーデター」で、会津藩と手を結んだ薩摩藩にしてやられた長州藩だが、稔麿は、その明晰な頭で両者の仲間割れを予測し、長州藩内にあって実力を蓄え、再起の機会がやってくるのを待つ「割拠論」を高杉晋作らと唱えている。しかし、藩内は、京都での勢力挽回を今すぐ図ろうとする強硬な「進発論」が暴走をはじめ抑えがきかなくなる。稔麿も、騒乱の渦中に身を投じることになり、近藤勇ら新選組の手入れをうける。「池田屋事変」である。稔麿は、最初池田屋の二階から逃げ京都の長州藩邸にたどり着くが、なぜか(長州藩邸の門が閉ざされたままだったという説もある。)再び外に出、近くの加賀藩藩邸前で会津藩兵多数と出会い殺害されたとされる。稔麿は、元治元年(1864年)六月24歳の若さで死んでしまう。京都は、祇園祭の宵宮の前日であった。