「松下村塾」は「明治日本の産業革命遺産」として「世界遺産」になった。しかし、幕末に吉田松陰が主催した「松下村塾」が、なぜ「明治日本の産業革命遺産」なのか、疑問に思われる方も多いのではないか。この疑問にお答えして「松陰神社」のお散歩を終えることしよう。
写真は、バスの中からではあるが、東京の霞が関にある「工部大学校跡碑」と在りし日の「工部大学校」である。
「工部大学校」(現在の東京大学工学部)は、明治政府が工部省の工学寮の責任者である山尾庸三(やまおようぞう)らによって設立した工業の学校である。山尾は、幕末長州ファイブの一人として、長州藩がイギリスに密航留学させた人物である。山尾は、イギリスに渡り、ロンドン大学で学んだ後グラスゴーで造船などの技術を学んだ。日本の「工学の父」と呼ばれている。この山尾が工学の必要性を考えるようになったのは、松下村塾での松陰の教えがあったからである。松陰は工学にも理解があり、彼は『學校を論ず 附、作場』で「工学教育論」を展開する。そこで、「身分の上下や学問の進み具合と関係なく人を集め、実技を重視した実習の場も設置すること」の重要性を説いている。つまり、松下村塾は「工学教育」の草分けでもあったわけで、「明治日本の産業革命遺産」となったのである。最後に、左肩が吊り上ったところなど「最もよく似ているといわれる松陰像」(疋田雪洲(ひぎだせっしゅう)作、京都大学附属図書館蔵)の写真をアップしてお散歩を終える。皆さん「松陰神社」のお散歩お疲れ様でした。