須佐の高山を挟んで西が須佐湾なら東には江崎湾がある。約1500万年前マグマの活動で高山ができた時のくぼみが、海面の上昇とともに西側に須佐湾をつくるなら、東側にはもう一つの須佐湾、江崎湾をつくったのである。
江崎湾も風光明媚で、湾の沖合には名島(なじま)(「借島(かしま)」ともいった。)という3つの小島がある。
この小島をうたったという「長門の国の借島」という歌が「万葉集」にある。「長門なる 沖つ借島奥まえて 吾が念(も)ふ君は 千歳にもから」、その意味は「長門にある沖の方の借島 そのように心の奥深く私を思っているあなたは千年も長生きなさいますように」
ところで、平安時代世の中が荘園の時代になると、現在の萩市の東部一帯は、「阿武御領(あぶごりょう)」とよばれる皇室の荘園となる。後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の時代、東大寺大仏殿の再建が重源(ちょうげん)よって行われることになると、周防国佐波郡と並んで木材の供給源となったのが「阿武御領」である。
切り出された用材は付近の川を使って運びだされたことを考えると、田万川河口の江崎港も運び出し口となったのであろう。江戸時代は、藩の重要な産物として用材が江崎港から各地に運び出されていた。
江崎湾には、「西堂寺六角堂(さいどうじろっかくどう)」という趣のある六角形の寺院建築がある。
その昔、長者の娘が許されぬ恋に悩み自ら海中に身を投げた。その化身のお地蔵さまを本尊にいただいているのがこのお寺である。江戸時代になって須佐にある益田家の菩提寺「大薀寺(だいおんじ)」の末寺となった。この頃、お地蔵さまが安置されている地蔵堂を「六角堂」として仕立てたようだ。「六角堂」は、一重の裳階(もこし)付きで屋根は宝形(ほうぎょう)造りで本瓦葺きと、江崎湾のパワースポットである。湾内に突出した岩上に建っていることから「浮島西堂寺」とも呼ばれる。
ところで、江戸時代隣の須佐は萩藩の永代家老となる益田元祥(もとよし)が館を構え益田家の本拠地となった。隣の江崎には次男の景祥(かげよし)が館を構える。しかし、萩藩は須佐と江崎の二つの港はいらないだろうと、江崎を萩藩の直轄地とする。教専寺は、萩藩の本陣として使われた。
港は、石見方面からの海防の拠点となったほか、北前船の寄港地として防長三白と呼ばれる米・和紙・蝋のほか山から運び出された材木なども藩の財政を潤した。材木が運び出された山地一帯は「小川」である。「平山台」と呼ばれる火山性の大地には、桃・梨・リンゴと四季の果実がたわわに実る。
また、須佐湾の近くには田万川温泉もある。