「松下村塾」は、皆さんご存知の吉田松陰が、多くの子弟を育てた私塾として有名である。しかし、松陰が実際塾舎で講義を行ったのは、安政四年(1857年)11月から翌年の12月までの1年1か月と短い。この短い期間に高杉晋作・久坂玄瑞など幕末に散った維新の志士をはじめ、明治の元勲、伊藤博文や山県有朋などが育ったのは有名である。塾生についてはまた別の機会に譲るとして、なぜ多くの門人が育ったのだろうか。その理由を考えてみよう。
松下村塾は、向かって右側の「講義室」と、門人が増えて手狭になった為増築した左側の「控えの間・寄宿生の宿舎」とからなる。増築は子弟の作業で行われた。その時、門人の品川弥二郎が誤って松陰に壁塗りの泥を落としてしまう。松陰はすかさず「師の顔に泥を塗るとはなにごとか。」というと、塾生の間に一瞬緊張が走った後笑いが広がったという逸話がある。これは、子弟の区別を重視した封建時代の教育にあって、現代のわれわれイメージの姿より異なった教育が行われていたことを物語る。「学の功たる気類先ず接し、義理従って隔る。(ともに学んで力をつけるには、まず、お互いの心が通じ合うようにすることが大切だ。そうすれば自然に人間が対人関係や社会関係において励むべき道がわかるようになる。)」と松陰は言っている。塾で人を育てることの基本が述べてある。このことは現代の学校でも忘れてはならないことではないだろうか。よくここを訪れる観光客の方が、「よくこんな狭いところで多くのすばらしい人材の教育できたな。」と感心されるが、教育は建物で行うのではなく先生と生徒の心の通じ合いが大切なのだ。松陰は語る。「教育とは、個々人に於いて内面的覚醒なさしめる事業である。」(『講孟余話』から)。心の通じ合いの中から、こどもの中に眠っているものを引き出すことが教育では重要である。なお、、塾舎に掛かっている「松下村塾」の標札は、大正元年(1912年)、当時の松陰神社維持会会長であった衆議院議員瀧口吉良(たきぐちよしなが)が記したもので、松陰が講義していた時は標札は掛かっていなかったと思われる。