松下村塾が始まったのは、松陰神社の南側を奥に入ってしばらく行く(途中に松下村塾の門下生伊藤博文らの旧宅がある。)と、松陰の叔父の玉木文之進の旧宅がる。ここで玉木が始めた私塾が興りである。(「松下村塾発祥の所」の石碑がある。)松下村塾の名は、当時この付近を松本(松下ともいう)村と言ったことから玉木文之進が名づけたものである。
松陰は海外密航罪で身を投じられた野山獄を出獄すると、生まれ育った杉家で自宅謹慎(幽囚)を命じられる。そこで孟子などの講義を始める。これが松陰主催の松下村塾の始まりで、安政三年(1856年)3月のことである。講義を始めた建物は、松陰神社内に「幽囚室」として残っている。このころ伊藤博文らが塾生となっている。
松下村塾の塾舎は、塾生が増え幽囚室が手狭になったため、安政四年11月に自宅内の小屋を改修した広さ八畳の「講義室」である。さらに翌安政五年3月には、塾生が増えたため増築し十畳半の「控えの間・寄宿生の宿舎」としている。松下村塾①で述べた品川弥二郎が松陰に泥を落とす話はこの時のことである。松陰主催の松下村塾は、松陰が野山獄に再投獄される安政五年12月まで続く。塾は2年10か月続いたことになる。塾生は、伊藤博文をはじめ、皆さんご存知の高杉晋作、久坂玄瑞など92名を数える。
松陰の処刑後の松下村塾では、久坂玄瑞が「一燈銭(いっとうせん)申合」を行い、松陰の著作『講孟余話』の写本を製作・販売し、尊王攘夷運動のための資金集めを通して塾生の結束を図っている。
また、明治になると松下村塾は、玉木文之進や兄の杉民治が後を継ぎ明治二十五年に閉鎖されている。その間塾生であった前原一誠が首謀した萩の乱がおこり、そのため玉木文之進が自害するなど、明治維新の光と影は萩の松下村塾にもあったのである。