長州藩主たちが眠る東光寺から東へ進むと中ノ倉と呼ばれる地区だ。そこに初代法務大臣を務め日本大学学祖である山田顕義の誕生地がある。
山田は弘化元年(1844年)に生まれた。吉田松陰が長沼流兵学を学んだ山田亦介は伯父である。そんな縁だろうか松下村塾の門を叩き、元服の時は松陰から詩を贈られている。しかし、高杉晋作より五歳年下の山田は松下村塾では下級生のグループで、あまり目立った動きはしていない。
慶応二年(1866年)幕府は、禁門の変に敗れた長州藩を相手に第二次長州征伐(四境戦争)を行う。長州藩は、奇兵隊を率いる高杉晋作の下に勝利し不死鳥のようによみがえる。この時頭角を現すのが山田である。結核で倒れてしまう晋作の遺言で、山田は弱冠二十三歳で諸隊の先輩をさしおいて総指揮官に抜擢される。巧みな戦術が評価されたのだ。さらに幕府との最後の戦いである戊辰戦争では、西郷隆盛に「あの小童、用兵の天才でごわす。」と言わせる。西郷の下で副参謀に就き天才ぶりを十二分に発揮する。
明治政府の下でも、山田は国の軍事で重要な役割を担う。しかし、「徴兵制」の導入を巡って陸軍省のトップ山県有朋と対立、陸軍省を去ることになる。山県が「徴兵制」をまず導入して軍制改革を図ろうとするのに対して、山田は「徴兵制」については、国民がその必要性を理解することが大切だとして、まず教育の必要性を訴える。松下村塾で学んだ山田は、教育により国民一人一人の自覚が大切だと考えたのだ。
伊藤博文を中心に大日本帝国憲法の制定に向けた取り組みがなされる中で、軍事から司法に転身していた山田は、民法などの法典の編纂を行うことになる。明治十八年(1885年)伊藤博文が初代内閣総理大臣になると、山田は初代司法大臣に任命される。教育の必要性を信条とする山田は、明治二十二年(1889年)大日本帝国憲法が公布されると、日本の伝統・文化・習慣を踏まえた法律を教えることを目的とした日本法律学校(日本大学の前身)を設立する。
山田の誕生地は「顕義園」として整備され、日本大学による「山田顕義先生之像」が立っている。