現在の明倫館は、萩の観光起点「明倫学舎」となっている江向にある。しかし、創建当時は、上級武士の屋敷が立ち並ぶ堀内地区の南部にあった。
開校式は、今から三百年年前の享保四年(1719年)正月に行われた。
なぜ長州藩は明倫館を創ったのだろうか。明倫館を創設したのは、長州藩第五代藩主毛利吉元(よしもと)である。湯島聖堂(のちに江戸幕府の昌平坂学問所)の長である林信篤(のぶあつ)から頻繁に朱子学(しゅしがく)の教授を受けるほどの「学問好き」だった。そこで、萩にも学問所をと考え明倫館を創ったと萩の人は言っている。しかし、その裏には吉元の政治的なねらいがあった。時の将軍徳川家宣(いえのぶ)は、「正徳の治(しょうとくのち)」で知られる新井白石(あらいはくせき)を起用し朱子学を基本とする政治改革を行った。そこで、幕府のイデオロギーと歩調を合わせ、学問所を創ることが幕府との関係上重要だったのだ。
さらに、長州藩内に目をやると、吉元が藩主に就くことで生じた不和を解決する必要があったのだ。吉元は、支藩である長府(ちょうふ)藩から藩主に迎えられたのであるが、長府藩は、子ができなかった毛利輝元が、養子に迎えた毛利秀元(ひでもと)が興した藩である。これに対して毛利家の本家である萩藩は、後に誕生した輝元の実子秀就(ひでなり)が初代藩主である。この輝元の血脈が途絶えたので、吉元に白羽の矢が立ったのだ。もっとも、輝元の次男は同じく支藩の徳山藩を興しているが、吉元が藩主に就く際、なぜか輝元の血脈ある徳山藩には声がかからなかった。そこで、両者は対立をすることになり些細なことが原因で徳山藩はお取りつぶしの事態に発展し藩内は混乱する。また、血脈の違う藩主を迎えた萩本藩の家臣たちの中は、藩主に対する反発や軽視の気持ちをもつものもあらわれる。そこで、吉元は、藩内の綱紀を粛正し文武を奨励するため、幕藩体制を支えるイデオロギーである朱子学を学ぶ明倫館を創設したのである。