明倫館の堀内から現在ある江向(えむかい)へ移転は、長州藩の天保改革の文教施策として行われた。天保改革とは、第十三代藩主毛利敬親(たかちか)が、村田清風(むらたせいふう)らを登用して行った藩財政の立て直しと産業の振興を柱とする藩政改革である。加えて、アヘン戦争で清朝がイギリスに敗北、次は日本だという危機感が強まると、海防政策の重要性も高まる。これらの施策を実施に移すためには、藩士たちに文武を奨励し、優れた人材を育成することが急務になる。そこで藩主敬親は、手狭となった旧明倫館から江向の新堀川沿いの土地を埋め立てた所に建設した新明倫館に移転を断行する。欧米列強からの情報の流入により、医学や軍事を中心とする「洋学」も奨励されることとなる。
新明倫館は、嘉永二年(1849年)に移転。敷地面積1万5184坪(東京ドームよりやや広い、堀内の旧明倫館の16倍の広さ)の総合的な藩校としてスタートした。当時の藩財政は、負債が歳入の二十倍以上に達していたが、長州藩には、それより百年前に考え出された藩内の産業の振興や交易の仕組みに工夫を加えることで蓄えた藩主の裁量で使うことのできる別途会計(手元金)があった。この他藩にはないお金が、新明倫館の建設に、そして幕末の長州藩の活動に役立つことになる。