萩城をつくったのは毛利輝元(もうりてるもと)である。しかし、現在は「史跡 萩城跡」となっているように、天守閣をはじめお城の遺構は残っていない。
それは明治七年(1874年)の「廃城令」によって取り壊されたためである。萩城跡は萩では「お城内」という。残っていれば「本丸」、指月山の頂上の「詰丸(要害)」、毛利家に関係する神社・仏閣(北部)や政治・軍事的役割(南部)を果たす「二の丸」からなっていた。
本丸は、五層の「天守閣」と儀式と政務を行う「御座敷」からなっていた。消失して再建されなかった江戸城のように戦乱のない江戸時代、天守閣は権威の象徴にすぎなかった。御座敷では侍官僚たちが働き、「西長屋」とよばれる大奥もあった。
北部や一部西部の「二の丸」には、毛利家の守り神である「宮崎八幡宮」、毛利元就以来祈願寺「満願寺(まんがんじ)」、同じく元就の菩提寺「洞春寺(とうしゅんじ)」などがあった。また、菊が浜に面した日本海側には、土塁が残っている。