萩の人はよく、「毛利輝元は、関ヶ原で負けて徳川家康の命令で、仕方なく山陰の田舎に城を築かされた。」と言うことがあり、萩を誇りに思えない理由の一つになっているように思う。
当然萩びいきの『萩市史』一巻を見ると、輝元が萩に城を築いた理由について、「①関ヶ原以前に輝元がいた広島に地形が似ている(三角州)。」、「⓶貿易(御朱印(ごしゅいん)貿易)の盛んな時代、日本海や阿武川の船の交通の拠点であること。」、「③毛利氏の前に萩城あたりに住んでいたのは輝元の親戚の吉見氏(よしみし)で、輝元は萩のことをよく知っていた。」を挙げ、輝元が萩に城を築く理由としている。
しかし、輝元は自身の手紙の中では居城の第一候補として「防府」をあげている。「防府は、山陽道沿いにあり佐波川の河口に位置する『周防(すおう)の国府』であり、そこにある『桑山(くわのやま)』に築城したい。」と述べている。
次に、「山口」をあげている。「山口の『高嶺(こうのみね)』は、むかし大内氏が城を建てかけたところで、毛利氏が完成させた経緯がある。」としている。
そして、最後にあげるのが「萩」である。「萩は日本海側の有力な港町としたうえで、北に片寄りすぎるのが難点。」としている。
これに対して、江戸幕府は、「萩の指月(しずき)が最適地」という徳川家康の意向を示す。
つまり、幕府の意向で萩にお城を築かなければならなかったのが実情である。萩は、「県庁所在地」となったわけであるが、今となっては他の県庁所在地が、明治になっても所在地であり続け大きく町の形を変えていることを思うと、「古地図で歩ける街」のキャッチフレーズで広く知られている萩が、人々の心のふるさととして旅情を誘っているのではないか。ましてや「インバウンド」の時代、「観光都市萩」として萩の個性の輝きは増しこそすれ消えることはない。