元治元年(1864年)欧米の連合艦隊が長州藩を撃退する。下関戦争である。砲台を占拠する連合艦隊の兵士の写真はよく目にする。連合艦隊は、アームストロング砲という鉄でできた大砲で攻撃、長州藩は惨憺たる結果に終わった。
そこには西洋の艦隊が鉄製大砲を使用したのに対し、長州藩は性能で劣る青銅製の大砲を使用したという技術の差があった。鉄製は青銅製に比べて強靭で、砲身が時々破裂する青銅製の大砲のようなこともないのである。実は、長州藩はこれより先に強靭な鉄を生み出す「反射炉」を自前で作ろうと試みていた。
長州藩では、佐賀藩などに「反射炉」の作り方を教えて欲しいと依頼するが、試作中だと断られる。そこで、藩は佐賀藩で描いた見取り図をもとに安政三年(1856年)反射炉の「雛形」をつくる。強靭な鉄をつくる溶鉱炉(ようこうろ)、「萩反射炉」は産声を上げたかに見えた。しかし、結果は失敗。本式の「反射炉」は、その頃起こった江戸大地震もあり、藩の財政がもたないということからつくられることはなかった。メイド・イン・長州の鉄製大砲はできなかったのだ。
結局、長州藩は正式の反射炉がつくられないまま、攘夷のための外国艦隊の打ち払いに失敗し、開国を選択しなければならなくなる。そこには「鉄」と「青銅」というどうしようもない技術の差があったのだ。なお、長州藩が手本とした佐賀藩は、第十代藩主鍋島正直(なべしままさなお)のもと、嘉永五年(1852年)4炉の反射炉を完成。また、幕府も江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)・英俊(ひでとし)親子によって安政四年(1857年)に韮山(にらやま)反射炉を完成させている。