須佐之男命が立った須佐のシンボル高山にはいつのころか「黄帝社(こうていしゃ)」と呼ばれる神社が座った。
「黄帝」は、中国の伝説の帝で、航海・造船の神としてあがめられている。
日本に黄帝社があるのは珍しい。大陸と近い山口県、西の長門市には、唐の美女「楊貴妃(ようきひ)伝説」があり、東の須佐には「黄帝伝説」ある。大陸から流れ着いた人が、航海の安全を願って黄帝を祭ったのだろう。いずれにしても「高山」は神の山「神山」だ。
他にも大陸とのつながりを物語るものがある。江戸時代、外国船は、鎖国といえども漂着を繰り返していた。その場合は、「唐人送り」といって長崎を経て送り返すことになっていた。享保十一年(1715年)、唐の船が須佐湾に漂着したが、立ち去らなかったので、攻撃を加える事態となったあげく、外国船は自ら火を放ってしまう。乗組員の死骸は、長崎に送られるが、祟りを恐れた地元の人は、弁天島のうしろの湾内にひっそりと「唐人墓」をつくる。周辺にはほかの漂着民の墓もある。
さらに、日露戦争の際には、ロシア兵が須佐に流れ着いた。須佐の人々は、食物・タバコ・果物などを与えた。ロシア兵は、片田舎にすむ日本人まで文化水準や道徳性が高いことに驚いた。須佐の法隆寺には「露兵漂着碑」がある。
このように、須佐は航行の目印となる高山と天然の良港須佐湾のおかげで様々な物語を生んだ。大陸と直接関係はないが、須佐は、江戸時代国内経済を支えた「北前船」の寄港地としても有名だった。当時須佐の「輸出品」は、「須佐唐津焼」で須佐の産業を支えた。