やがて平安時代ごろには、この牧場は荘園の体裁をとるようになり京都の有力貴族へ牛が献上されるようになる。源平の争乱で東大寺が消失すると、後白河法皇(ごしらかわほうほう)は重源(ちょうげん)に再建を命じ、現在「重源の里」と呼ばれる周防国の佐波川の上流の徳地と並んで阿武川の上流からも用材を調達した。デルタより少し上流の現在「霧口(きりぐち)」と呼ばれるところは、地名は用材を運び出す拠点を示す「切り口」だったそうだ。
鎌倉時代までは、デルタ一帯は、荒れ地の耕地が点在している状況だったが、やがて新田の開発が進み村ができると、荘園はデルタの土地を含む「川島庄(かわしまのしょう)」という名前で呼ばれるようになる。現在もデルタの最上流部は「川島」という町名で呼ばれており、川の岸あたりには水の神様である「厳島神社」などがつくられ人々の生活を守る。
室町時代になり、山口に大内氏が勢力を張るようになると、デルタも大内氏が支配するようになる。応仁の乱のころには、大内氏に従った島根県益田市を拠点とする「益田氏(ますだし)」に川島が与えられている。
さらに、戦国時代「毛利元就(もうりもとなり)」が、島根県の津和野(つわの)を拠点とする「吉見氏(よしみし)」とともに大内氏を滅ぼすと、川島は吉見氏の勢力が及ぶようになる。津和野という内陸の「王」は、交易のできる海を求めて萩に進出してきたようだ。吉見家の家臣や町人たちが住み、毛利輝元(もうりてるもと)の墓所である天寿院(てんじゅいん)あたりに館を構えたようだ(江戸時代以降は「堀内」と呼ばれる)。毛利輝元の萩開城前に萩には城下町風のたたずまいが生まれていたのだ。
ところで、「萩」の名はどこから来たのだろうか。戦国時代、山口に館を構えた大内義隆(おおうちよしたか)が、天文十九年(1550年)に記した文書の中に、デルタの東側を流れる松本川の一帯を指す言葉として「萩浦」の語がみられるのが最初である。