新明倫館の敷地は、現在萩市の観光起点「明倫学舎」として整備されている。
整備される以前は、「萩市立明倫小学校」で、観光客が多く出入りするところは、「南東門」と呼んでいた。
そのわきにあるのが「観徳門」である。
「観徳門」は、かつては孔子を祀る「聖廟」の入り口の門として中央にあったが、現在はここに移されている。
門から大きく育った黒松の並木に沿いに明倫学舎の入り口に向かう。学舎には、観光起点として観光地のインフォメーションセンターとしての機能が整備されている。学舎の入り口からさらに西へ行くと、双子のような大きな石碑が並んでいる。二基とも「亀趺(きふ)」という亀に乗っかっているのは明倫館が永遠であって欲しいとの願いが込められている。
向かって左側は、旧明倫館の創建の由来を第二代学頭・山県周南が碑文を記している。右側は、新明倫館の開校を記念して第十代学頭・山県大華が記している。「幕命を崇拝して国家の蕃屏たる所以なり」と読まれる部分が切り取ってある。維新の志士たちの仕業だろう。
さらに学舎から離れ敷地の中央に向かうと、大きな門がある。かつての正面入り口の門である「南門」である。
「南門」から北に行くと旧明倫小学校体育館がある。のさらに北には、かつての「西塾」「東塾」の遺構である「聖賢堂」がある。当時は「聖廟」で孔子を祀る道具などを納めていた。
さらにその北にある深さ1.5m、東西39m、南北16mの人工の池がある。「水練池」である。藩士たちが、戦いでの水泳や水中騎馬戦の訓練をした。
ところで、肝心の孔子様を祀る「聖廟」がない。北古萩町にある海潮寺の本堂が火災で焼けると、明治八年(1875年)に「聖廟」を本堂として移築し現在に至っている。
なお、「明倫学舎」の北側の旧山口県立萩商業高等学校の敷地には明倫小学校が移転しているが、明倫館の時代には、二つの「馬場」と「練兵場」として使われていた。