明倫館の名は、中国の古典『孟子』の「皆人倫を明らかにするゆえんなり」からきている。江向に移転してからの教育内容は次の六科である。①経学(四書五経の学習と朱子学)、②歴史(中国と日本の歴史書)、③制度(中国の官制と日本古来の法制度)、④兵学(中国と日本の 用兵や戦術など)、⑤博学(天文・地理・経済など)、⑥文章(中国の名文)
しかし、それだけではない。「医学稽古場」では幕末洋学の人材育成をおこなった。天保十一年(1840年)村田清風は、長崎でシーボルトに学び、江戸では緒方洪庵(おがたこうあん)とともに新進の蘭方医として広く知られるようになった青木周弼(しゅうすけ)を召し抱える。明倫館の「医学稽古場」(のち「好生堂(こうせいどう)」と改称)で教えている。
19世紀に入って萩では、三度コレラが猛威をふるっておりパンデミックであったようだ。そこで青木周弼と弟の研蔵(けんぞう)は種痘を研究し、コレラ治療に貢献した。
また、迫る対外危機の中で、周弼は西洋兵学を藩に紹介している。後に「日本陸軍の生みの親」と言われる大村益次郎(おおむらますじろう)を藩に召し抱えるように進言している。また、周弼らは「好生堂」を中心に軍事の人材の育成も行っている。そこで学んだ松島剛蔵(まつしまごうぞう)は、長州藩初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」の初代艦長となり、高杉晋作(たかすぎしんさく)らと江戸への航海実習を行っている。さらに、幕府の示した「攘夷期日」に従っておこなった下関攘夷戦争に「丙辰丸」で参戦している。
なお、明治政府の外務大臣として活躍し、領事裁判権の撤廃に成功した青木周蔵(しゅうぞう)は、研蔵の子どもである。