幕末、禁門の変(きんもんのへん)に敗れ、第一次長州征伐で切腹させられるのが国司(くにし)・福原(ふくばら)・益田(ますだ)の三家老ということは知られているが、藩を幕府の命に従わそうとする俗論派(ぞくろんは)は、もう一人の家老も切腹に追いやる。その家老の名は「清水親知(しみずちかとも)」、通称「清太郎…
福原家は、毛利家の一族であった。戦国時代の居城(鈴尾城)は毛利元就(もうりもとなり)の居城吉田城と同じ盆地にあった。元就の母は福原家の出である。福原貞俊(ふくばらさだとし)は、吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・口羽通良(くちばみちよし)[四人衆]とともに元就亡きあと若い…
口羽家は、毛利家の親戚筋(庶流)の志道(しじ)家の一族である。戦国時代、毛利元就(もうりもとなり)の本拠地安芸国(広島県)[安芸高田市吉田]の北の石見国(島根県)の山間部の口羽村を領地としたので「口羽」の名がある。 元就のもとで、口羽通良(みちよし)が重用され、元就の子ども吉川元春…
外堀あたりにも史跡が点在する。北の菊が浜から外堀に入ると、まず総工費1億円で復元した「北の総門(きたのそうもん)」。江戸時代には南に「中の総門」・「平安古(ひやこ)の総門」があり、萩城や上級武士の立ち並ぶ「堀内」の入り口であった。 南に下がると「素水園(そすいえん)」と「田中大…
萩に別れを告げるスポットは、「道の駅 萩往還(はぎおうかん)」だ。ところで、萩往還は、江戸時代萩と瀬戸内海の防府の藩の港「三田尻(みたじり)」を結ぶ動脈で、参勤交代の藩主や幕末の志士たちも往来した。 藩主たちは、江戸に行けば楽しいことがあり少々うかれていたかもしれえないが、中には悲…
山県有朋をご存じだろう。内閣総理大臣を務め、日本陸軍の創設にかかわった明治の元勲である。山県と同じ年の「竹馬の友」に時山直八がいる。直八は、天保九年(1838年)の元旦に萩市の西部奥玉江で生まれる。幼いころは、「餓鬼大将」で名が通っており、「近所の子どもと喧嘩すると、親指に食いついて離さない。」とい…
赤根武人は、天保九年(1838年)瀬戸内海に浮かぶ周防柱島(はしらじま)(現山口県岩国市)の島医者松崎三宅(まつざきさんたく)の長男として生まれる。安政三年(1856年)ごろ松下村塾に入門する。 文久三年(1863年)長州藩が攘夷決行、下関で外国船を攻撃するが反撃され手痛い敗北を期す。そこ…
奇兵隊士白石正一郎は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、「山陽道きっての回船業の大問屋である。」とされている。しかし、実際はどうだったのだろう。 文久三年(1863年)攘夷決行を行った長州藩に列強が攻撃。藩が手痛い打撃を受けると、晋作に馬関(下関)の防衛を任すことになる。そこで、晋作は奇兵隊を創…
やがて平安時代ごろには、この牧場は荘園の体裁をとるようになり京都の有力貴族へ牛が献上されるようになる。源平の争乱で東大寺が消失すると、後白河法皇(ごしらかわほうほう)は重源(ちょうげん)に再建を命じ、現在「重源の里」と呼ばれる周防国の佐波川の上流の徳地と並んで阿武川の上流からも用材を調達した。デルタ…
古代のデルタのあたりは、まだ湾の面影を残し半農半漁の生活をする人々がぽつぽつと生活していたようだ。人々の生活の主な舞台はデルタの外であった。デルタの外は「椿(つばき)」と呼ばれ、日本海側の連絡道も「椿」を通っていた。現在では阿武川を挟んで西側を椿西(ちんぜい)、東側を椿東(ちんとう)という。それぞ…