長州藩主たちが眠る東光寺から東へ進むと中ノ倉と呼ばれる地区だ。そこに初代法務大臣を務め日本大学学祖である山田顕義の誕生地がある。 山田は弘化元年(1844年)に生まれた。吉田松陰が長沼流兵学を学んだ山田亦介は伯父である。そんな縁だろうか松下村塾の門を叩き、元服の時は松陰から詩を贈られて…
伊藤博文についてはまた詳しくおはなしするが、ここでは略歴にとどめる。博文は、天保十二年(1841年)、現在の光市束荷(つかり)の農家、林家に生まれ、九歳の時萩に移った。両親ともに伊藤家と養子縁組を行い、この家に住むようになった。安政四年(1857年)松下村塾に入塾し、松陰から「なかなかの周旋家(しゅ…
吉田稔麿誕生地をさらに行き伊藤博文(いとうひろぶみ)旧宅を過ごすと片山東熊(かたやまとうくま)別邸跡につく。 片山は、松陰神社のところで紹介した長州ファイブの一人山尾庸三(やまおようぞう)らが創設にかかわった工部大学校(現東京大学工学部)の一期生である。誕生は、松陰らが収監された野山獄…
松陰神社の南側の松本新道を少し行くと左手に松下村塾の四天王の一人吉田稔麿(よしだとしまろ)誕生地の碑がある。 [caption id="attachment_744" align="alignnone" width="1024"] 「吉田稔麿誕生地」の碑、「稔丸」となっている[/caption…
「松下村塾」は「明治日本の産業革命遺産」として「世界遺産」になった。しかし、幕末に吉田松陰が主催した「松下村塾」が、なぜ「明治日本の産業革命遺産」なのか、疑問に思われる方も多いのではないか。この疑問にお答えして「松陰神社」のお散歩を終えることしよう。 写真は、バスの中からではあ…
吉田松陰は、「安政の大獄」で幕府の大老井伊直弼によって伝馬町の牢屋敷で処刑される。牢屋敷は、現在十思(じゅっし)公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)となっている一角にあった。 安政の大獄は、ご存知の通り、朝廷に無断で幕府が日米修好通商条約を結んだことに反対する尊王攘夷の志士や公家…
吉田松陰は、安政六年(1859年)十月二十七日、幕府の手で行われた安政の大獄に連座し江戸伝馬町(現:中央区日本橋小伝馬町)の獄中で処刑される。遺体は、荒川区南千住にある回向院の墓に罪人として埋葬される。しかし、翌安政七年「桜田門外の変」で大老井伊直弼が殺害されると幕府の権威は失墜する。そこで、長州藩…
吉田松陰をこの地で神として祭ったのは、明治二十三年(1890年)に母瀧と兄の民治が小さな祠を作ったことに始まる。明治四十年には、伊藤博文らの尽力で縣社となっている。現在の社殿は、昭和十三年(1938年)に起工されたもので、太平洋戦争をはさんで昭和三十年に完成している。松陰神社の御神体は、松陰愛用の赤…
松陰神社のお散歩の後半。この石碑には、『親思ふこゝろにまさる親こゝろ けふの音つれ何ときくらん』という松陰の詩が刻まれている。この詩は、萩の人なら知らない人はいない詩で、萩市民の心の染み入っている。詩は、松陰が江戸で処刑される安政六年(1859年)10月27日の1週間前に詠まれたもので、家族や親せき…
今回は、松下村塾の塾舎の隣にある杉家の人たちが生活した家にある「幽囚室」掛かる軸の書を紹介する。 松陰は、野山獄を出た後、生家杉家に預けられ謹慎処分となる。そこで、家族の勧めで獄中で行っていた『孟子』の講義を続ける。その部屋が「幽囚室」である。正面に杉家と吉田家の神棚があり、向かって右側に松陰の尊…